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2018:とっくに明けてます

謹賀新年!.JPG
謹賀新年!(遅いなあ)。
なんと2018年のスタートから風邪ひいております。なわけでもろもろ作業が遅れておりまして、不義理も発生中ですが、今週中には完璧に復活する予定ですので・・・。

今年もどうぞよろしくお願いいたします!
ということで、告知をちょろっと。
1月19日(金)より絶賛公開となります『パディントン2』の劇場用パンフレットに「『社会派』としての映画『パディントン』」という文章を寄稿。
続編が素晴らしい出来であったことで、名シリーズへと踏み出しました。たぶん『2』を観ることで、『1』も余計好きになれるんじゃないかなと。僕はまさにそうでしたね。

1月20日(土)は傑作ドキュメンタリー映画『サファリ』の公開記念トーク。六本木TSUTAYAの2F特設イベントスペース(16:00~17:00/開場:15:30)にて 丸山雄生さん(東海大学特任講師)と僭越ながら対談させていただきます! 題して「見る、撮る、撃つ:アフリカとハンティングの映画史とウルリヒ・ザイドルの魅力」。
http://real.tsite.jp/ttr/event-news/2018/01/safari.html

『サファリ』公開記念イベント
講師/ゲスト:丸山雄生(東海大学特任講師)×森直人(映画評論家)対談
見る、撮る、撃つ:アフリカとハンティングの映画史とウルリヒ・ザイドルの魅力
2018年01月20日(土)   TSUTAYA TOKYO ROPPONGI  16:00~17:00(開場15:30~)*一部本編の紹介あり

nice!(1) 

震災と五輪のあいだ

クリストファー・ノーラン.jpgペトロールズ.jpg
というわけで、初めて本ブログに映画評を載っけてみました。
基本的には『読む映画館 轟夕起夫NET』からの影響なんですが(笑)
http://todorokiyukio.net/
また気が向いたら、たま~に溜めていくかもしれません。

さて2017年、息子(5歳半)の生意気度(&ようしゃべる度)が快調に加速していったりなど、思えばいろいろ歳月のサイクルを感じることの多かった一年ですが、
自分自身としては、いつも通り以上にいつも通りな感じ(←これがベストです、本当)でマイペースに日々過ごせたかなと思います。その中であえて言うなら、司会業は過去いちばん多くやったかなあ?と。
年末でいうと、12月14日(木)は『ダンシング・ベートーヴェン』ユーロライブ試写で、「ダンスマガジン」編集者・浜野文雄さんの聞き手を務めさせていただき(たいへん楽しく勉強になりました)
16日(土)はテアトル新宿にて『ビジランテ』の「ヤングday」! 良い日に呼んでいただいてとても嬉しかったです。

試写おさめは25日(月)、
取材おさめは28日(木)でした。
映画館おさめは、まだこれから。今日も明日も見逃し映画を追いかけます!(家の大掃除もやらなあかんけど)。

宣伝としましては、
年末年始にこれは痺れる!という素敵な一冊『鬱な映画』(洋泉社)に『イレイザーヘッド』論を寄稿。
鬱な映画.jpgイレイザーヘッド.jpg

ワーナーの公式サイトに『ダンケルク』ブルーレイ&DVDの特典映像について書きました。これは本編が響かなかった人も必見のメイキング。めっちゃ面白かったですよ~!
https://warnerbros.co.jp/c/news/2017/12/1400.html

「TV Bros.」にはいつもの星とりのほか、MOVIE OF THE YEAR 2017。この恒例企画が年間ベストとしては一発めの発表となりますかね。

あと新年一発めに出るものとして
「朝日新聞」1月5日(金)夕刊に『キングスマン:ゴールデン・サークル』評が載る予定です。

とりあえず今年はこんなもんで。良いお年を!
久米宏.jpg初期の台風クラブ.jpgサンダーキャット.jpg

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こっそり書いてた『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の一万字(強)レビューを掲載いたします

映画 夜空.jpg
※実はこんなの書いてたんですねえ。やたら長いので、もしよろしければ。2017年の覚え書きとして。画像は使用許可を取っております。


■「日本映画」論試行としての石井裕也『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』
Text by 森直人


『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(以下『夜空』)は、いま「日本映画」を作る営為とはいったい何か?――これこそが真の主題に思える。長編第一作『剥き出しにっぽん』(2005年)の頃から、監督・石井裕也(1983年生まれ)の映画は常に「日本論」であった。一見、鬱屈した童貞が悪戦苦闘しまくるだけのザーメン臭い青春映画に、「にっぽん」と冠したこのデビュー作は、萌芽あるいは優れた直感として現代日本を批評的視座で捉えるスケールが装備されていたと言うべきか。以降、石井は積極的に「日本映画」の作り手であろうとしてきたはずだが、『夜空』はとりわけ、ますます困難を伴うその在りようの自覚的な問いとして、作品全体が投げ掛けられている印象だ。

「日本映画」とは何か。それは日本の状況下で生き、手に入るもの(資本・人材・環境)を使いながら、作り手の小さな実感を大きなリアリティにまで敷衍させた日本論を語る映画のことだ。では2017年のいま、「日本映画」はどんな形を取るのか。撮影所システムの終焉も、バブル景気の崩壊もとっくに遠い昔。経済のゼロ成長が常態化し、震災の巨大な傷跡と、いつ何が起こるかわからない新たな恐怖や不安に挟まれている我々の現在。そんな中、身の丈の感覚で、身の丈の現実に向き合い、同時に今後を生きる力、サヴァイヴするヒントを観る者に与えるものだけが誠実な「日本映画」となるのではないか?
つまり「日本映画」とは、「貧しさ」を引き受けたうえで闘うことと同義になる。それは知恵と勇気と小さなカメラだけを武器にした、持たざる者にとってのチャンスであるはずだが、しかし多くの映画は、まさに「貧しさ」ゆえに視野が広がらず、射程も伸びず、表現の美しさも獲得できない。結果、「貧しさ」の中に埋没する。希望のロールモデルはなかなか生まれない。

いま、「貧しさ」から希望につなげる映画としては、アニメーションが圧倒的な優位となる。例えば昨年の『この世界の片隅に』。戦争に向かう日本社会を庶民の目線から精緻に描出した“リアリズム・アニメ”の名作。そして国民的大ヒットとなった、震災後の喪失感を背景に良質のセンチメンタリズムに傾く『君の名は。』。あるいはCGを潤沢に使い、原発事故後の安全管理の問いをラディカルに突きつける特撮映画『シン・ゴジラ』。これら2016年の「三強」はいずれも優れた「日本映画」だが、作画という万能的な構築術の豊かさで「貧しさ」を捉える転倒が、その高度な達成を可能にしたものだ。ならば地べたの現実に留まるしかない、貧しき監督とクルー、生身の俳優たちによる実写映画が、アニメやCGの砦に食い込み、打ち負かす術はもはやないのだろうか?

そのひとつの回答――あるいは試行と模索が『夜空』だと言える。簡素なロケーションによる実景に役者を立たせ、詩的な叙述で表現を艶やかにし、率直な自分たちの疑問や焦燥、生活の中で重ねる思考を映画の向こうにある世界に届かせようとする。実は短いアニメーション・パートも挿入されるが、あくまで修辞性を豊かに伸ばすための補助であり、むしろ実写映画の自由闊達さを印象づける使い方だ。
しかも『川の底からこんにちは』(2009年/劇場公開は2010年)でのブレイク以降、『舟を編む』(2013年)などメジャー規模の商業映画で活躍する俊英監督・石井裕也が、初期の自主映画時代に凱旋したようなインディペンデント・スタイル、つまり「貧しさ」の中で自らの地平の更新に挑み、彼自身が持つ洞察力や想像力の豊かさで「貧しさ」を突き抜けてみせたことは、極めて大きい。

まず『夜空』が勇ましいのは、これは日本論である、という明確な意思表示を冒頭で宣言していることだ。つまり、日の丸が映る。
都市の夜景。浮かび上がるタイトル。明けて朝。国旗はためく下、皇居周辺でジョギングに励む人たち。ここで「日本」から「東京」というシンボリックな場所にフォーカスされる。「裸族の人は多分ジョギングなんてしない。でもここでは大勢の人がしている」と、やや低めのトーンの女性の声でモノローグがかぶさる。続いてシネマスコープの画面がぐるりと回転し、ミキサーのように掻き回される東京の風景。けたたましい車のクラクション。信号。渋谷駅や新宿駅西口にアクセスするバス停。行儀よく列に並ぶ人たちが皆スマホ画面を凝視して俯く中、ただひとりだけ空を見上げている若い女性。
彼女が美香(石橋静河)である。田舎から単身上京して東京で暮らす、看護師として働き、夜は渋谷のガールズバーでバイトして収入を補填する、何の変哲もない「生活者」としての個人。これが『夜空』のヒロインだ。「日本」→「東京」→「個人」。『夜空』はこの回路で日本論を実践する。ミクロな個人の実感のレヴェルから状況全体を撃とうとする。むろん日本の向こうには「世界」がある。グローバリゼーションという言葉を持ち出すまでもなく、すべては地続きで正も負も連鎖している。ただし我々が生きる場所はあくまでローカルな現実だ。ならば、ひたすら目の前を凝視して、地べたの「いま、ここ」をしつこく掘り、堅固な具体性の奥にようやく開いた穴から、ありったけのイマジネーションを大きく広げねばならない。

石井裕也の「日本論」、その最新ヴァージョンである『夜空』は、当然にも時期が重要である。撮影は2016年9月(およそ三週間)、公開は2017年5月。これは象徴的に「震災と五輪のあいだ」を指すだろう。美香はいつしか東京でアナウンスされなくなった放射能のことを訝しげに思い、周囲では2020年の東京オリンピックに向けての再開発でやたらめったら工事が進んでいる。この宙ぶらりんな時代の空気を、流星を手づかみにするようなスピードで生け捕りにした映画が『夜空』だ。

 再び冒頭に戻りたい。このオープニング・シークエンスを目にした者は、ある「気分」を生々しく感じるはずだ。それは違和感とか、不機嫌と言ってもいいだろうし、決して納得はしていないが、自分なりに帳尻を合わせて日々をやり過ごしている「生活者」の、途方に暮れた感覚だと受け取る向きもいるかもしれない。つまりは周囲、世間一般、自分を取り巻く世界=“みんな”の同調性から乖離した人間の「気分」である。特にカメラが一瞬逆さまになって、皇居周辺から美香の日常に橋渡しされる接続映像は、無力な個人の眩暈のようでもあるし、為す術がない世界(日本・東京・私の周り)を撹拌してやりたいという凶暴な意思の表れのようでもある。

ロケーションを基盤に組み立てられた映像と音の連なりが、ひとつの濃厚な心象となる。この時点で観る者はひとつの了解を得るだろう。『夜空』という映画は「観念」と「現実」のせめぎ合いで出来ている、と。
そもそも美香という人間は何者なのか? 彼女の心の声として「青色の詩」が、「彫刻刀の詩」が、あるいは「ゆめかわいいは死後の色」の一節が転写されるように、美香は最果タヒの詩から立ち上がった人間だ。より正確に言うなら、最果タヒの言葉の海から、石井裕也が特に共振したところを抽出した「観念」のバトンリレーの実体化。対して、もうひとり。池松壮亮という稀有な感度を備える俳優の当て書きで、その肉体を通し、石井自身から紡ぎ出された「観念」が硬質に結晶したキャラクターが、慎二だ。
説話構造で言うと『夜空』はボーイ・ミーツ・ガールの展開を取る。だが実は、ふたつの「観念」が「現実」の中でぴったり寄り添い、融和するまでの物語、と読むのが本質ではないか。『夜空』のボーイ・ミーツ・ガールはラヴ・ストーリーの定式ではなく、「観念」と「現実」の関係性を相克から高次に昇華させるための試みの軌跡であり、その記述形式はシネエッセイと呼ぶのがきっと最も適切であろう。

特に慎二は、この映画の中心思想を担う存在である。「貧しさ」を引き受ける、という点において、彼は極めて意識的であり能動的だ。仕事は建設現場で日雇いバイト。いまの年収は200万円行くか行かないか。世間的にはワーキングプアと呼ばれるかどうか、境界線のラインだ。映画の後半、かつての同級生・玲(佐藤玲)の登場により、高校は進学校に通っていたことが示される。「すっごい頭良かった」のに、なぜそんな境遇になったのかと玲に訊かれると、しかし彼は「それくらいがちょうどいいから」と答える。
実際、慎二は不平不満の顔を見せない。彼のねぐらであり城――古いアパートの狭い部屋は豊潤な空間だ。もちろん家計のやりくりは大変なようだが、生活の不安も冷静に受け止め、煙草に火を灯しリラックスして世界の様々なことに想いを馳せる。寝床の周りにはティッシュの空き箱を本棚代わりに使って文庫本をたくさん積んでいる。まさに「ちょうどいい」身の丈のサイズで、彼に必要なものが詰まっている。そこは慎二の小宇宙が純粋に構築された聖域のように美しい。
要は「足るを知る」ことのやや潔癖な実践者といったところか。もちろん綺麗事ばかりではない。慎二はよく「イヤな予感がする」と訴える。不可逆な時間、時代の流れ、あるいは加齢と共に、漠然とした不安が、いつか現実化するかもしれない気配を鋭敏に察知している。
例えば慎二のアパートの隣人は、いわゆる独居老人である。大西力が演じるこのお爺さんは、人懐っこく自分を訪ねてくる慎二にお薦めの本を貸してくれる。部屋の中には谷崎潤一郎や有吉佐和子らの小説、ダンテの『神曲』から岩根和郎の『人間やりなおし』、あるいは数学者・野口宏(「廣」「広」名義でも知られる)の『トポロジー 基礎と方法』まで、雑多な蔵書を蓄えた知的な市井の人物だ。しかし身寄りのない彼は熱中症で倒れても、蠅がたかるまで誰も気づかない。そして建設現場の同僚。「この仕事がなくなったら、もう死ぬしかないな。お前らだってカラダが丈夫でも、東京オリンピックが終わったら仕事がなくなるんだ」とこぼしつつ、日々の労働を何とかつなげていく中年男の岩下(田中哲司)。もうすっかり腰を痛め、だらしなく開いたズボンのチャック(「社会の窓」と呼ばれるものだ)も閉められない。フィリピンの家族を養うため、出稼ぎに来ているアンドレス(ポール・マグサリン)。一見快活で健康的だが、突然脳梗塞に襲われる智之(松田龍平)。思わぬ形で人生をリタイアする者もいる。店で出会ったオネエちゃん、一杯のビールなど、ほんの小さな「希望」を自前で捻り出すようにして生き抜きながら、黙々と社会のボトムを形作る男たち。慎二はこうした「世界」と日々触れ合っている。

 すぐ傍にいる老人や仕事仲間は、明日、未来の慎二の姿かもしれない。しかしだからこそ、自分の人生、生活の一部を共有している彼らへの愛も込みで、かけがえのない瞬間瞬間の「いま、ここ」を積極的に肯定しようとしている。一方、玲は「ニューヨークで自己実現」というやや図式的に過ぎるほどの上昇志向を持った女性であり、エリートになる可能性のあった慎二の現在を「残念」と自動的に価値判断する。しかし「愛してた」だけの元・同級生男子に突然連絡してくる突飛な行為など、気持ちはかなり不安定なようだ。彼女は世間一般的なコードの表象とも言えるキャラクターだが、慎二との組み合わせだと異星人との接近遭遇のようにも見えてしまう。どこかエキセントリックで不思議な印象を与えるこのパートは、石井裕也が慎二に託した「経済成長、ではない選択」――オルタナティヴな生き方に軸足を置いて考えてみよう、という、いまの日本の社会的位相に同期したうえでの「幸福論」的な提案が、強めのトーンでくっきり為された部分だと思う。

 また、慎二は、生まれつき左目がほとんど見えない。それに絡め、劇中、左半分が闇になっている画面がインサートされる。
 この画面もまた、不思議である。つまり映像的なトリックがあって、実際は片目が塞がれてもこのような視界にはならない。あくまで「世界の半分が見えない」ことのシンボリックな表現。彼が認知できる世界像は半分に過ぎず、残りは完全な暗闇に包まれている、という主観性に形式を与えた比喩的なイメージカット。石井裕也の特異な独創は、ここで設定を律儀に受けた視覚のリアリズムを打ち出すことを避け、慎二の世界観の表象として画面全体を「意味」そのもので埋めてしまったことにある。
おそらく、このワンカットの画面こそが『夜空』を貫くベーシックな「観念」であろう。肉体的な負荷のせいで、慎二はあらかじめ視界、すなわち世界把握の限定性を抱えている。しかし彼は否定性の人間ではない。ほとんど捨て身の覚悟で、肯定性に賭けた人間だ。つまり慎二にとっては「世界の半分が見えない」ではなく、「世界の半分は見えている」。これが石井裕也の掲げる現在的な「希望」の最大値、ということではないか。そして「でも、半分も見えれば上出来なんじゃない? 普通、半分も見えないから」と美香が言ってくれる段階――彼女が慎二の持つポジティヴィティーのレヴェルに到達することで、ふたりの恋は成就に近づく。ワンカットの画面をめぐる「観念」の共鳴、我々が居る「いま、ここ」を「上出来」の状態で認知するための試みとして、『夜空』はボーイ・ミーツ・ガールという説話構造をセッティングしたように思える。

 では、慎二と美香はどのように「出会う」のか。
 物語に沿って言うと、初めてふたりが交差し、すれ違うのは渋谷の居酒屋(東京・埼玉でチェーン展開する店「一休」)だ。大騒ぎの店内、美香は病院の同僚女子と共に、チャラい男ふたりと合コンめいた席に座っているが、すでに彼女だけシラケている。彼ら三人の「ヤレるか、ヤレないか」のバカ話に(自分たちの席から少し離れた場所で)諦めのような嫌悪の顔を見せたり。その近くの席に、ひとりでちびちびビールと煙草を味わいながら文庫本を読んでいる慎二がいる。ふたりは少しだけ目が合う。その一瞬で、互いの存在がチラッとでも記憶に刻まれただろうか? そのあと日を改めて、美香の夜の勤め先である渋谷のガールズバーに、智之と岩下に連れられた慎二がやってくることになる。
だがその前から、ふたりは生活圏内を共にしているという前提は重要だ。慎二も美香もそれぞれの仕事場で、同じ工場で同じおばちゃんたちが詰めたからあげ弁当を食べている。これを「場所」だけでなく「階層」の表象だと捉えてもいい。ふたりは同じチェーン系の居酒屋で飲み食いし、同じ弁当で腹を満たすという生活水準においてもつながっている。
そんな中、慎二と美香は「出会う」という関係性を深めていく。彼らは渋谷の街中で出会い、デートで新宿にも出かけるが、ふたりともこの都市に対して抱いているのは親和性ではなく違和感だ。特に渋谷はJR駅近くのスクランブル交差点やセンター街など、ある典型的な「東京」のイメージが映し出される。慎二も美香も、雑踏にまぎれて孤独な惑星のように生きており、まるで同じ周波数をキャッチした者同士が、軌道の法則に導かれるように互いに惹かれ合っていく。それはあらゆる偶然をも必然の色に変えていく、我々がよく「運命」と呼ぶ人と人の縁だ。先ほど「幸福論」という言葉を使ったが、同時に『夜空』は「出会う」ことの考察、「運命論」のメカニズムを鮮明に描こうとする側面があると思う。ある種「逆算的」にも思えるほど、パズルのような正確さ、あるいは律義さで、ひとつの出会いの過程を見せ切ろうとする規則性の提示が作品組成の背骨になっているのだ。

 同じ周波数、ということに関してさらに言うと、本質において慎二と美香は似ている。特に「言葉」の立ち上がり方。ふたりには饒舌と沈黙の極端なコントラストがあり、そのどちらかの状態にいることが多い。慎二は「ちょっと黙ってろ」と注意を受けるくらい、仕事先などで速射砲のように一方通行の言葉を繰り出す。対して勤務中など普段寡黙な美香は、慎二と一緒に街を歩いている時、相手の沈黙を埋めようとするかのように「頑張って喋る」状態になる。共に意味ありげだが、実はまったく取りとめのない言葉。相手が饒舌ならこちらは沈黙、相手が沈黙ならこちらは饒舌。そのぎこちないやり取りから、穏やかな融和に向かう中で、どんどん会話がニュートラルなバランスに落ち着いていく。ふたりの関係性の緩やかな変化に連動する形で、映画のトーンは何度も細かい転調が起こっていく。
つまり慎二と美香は同じ人物像を反転させたような男子・女子であり、出会ってからは互いに補完関係にあるということ。言わば表裏一体、ポジとネガ。このふたりでワンセット的な在りようが、先に述べた「逆算的」な印象、そして「運命論」の根幹にあるものだろう。

また、ここで注意したい重要なポイントがある。石井裕也の「言葉」の扱い方に、以前の作法から変化が見られることだ。
過去作での彼は、もっと「言葉」に「意味」を直線的に託すことが多かった。例えば『川の底からこんにちは』のヒロインが自己規定する「中の下」という社会学的な時代相の明示であり、『あぜ道のダンディ』(2010年/劇場公開は2011年)の不器用な父親に付与した「ダンディ」という価値転倒的な美学。さらに後者を発展させたものが、『ハラがコレなんで』(2011年)のヒロイン、家も財も持たず宛てのない一人旅に出る若き妊婦の「粋だね!」という口癖だ。これはおそらく哲学者・九鬼周造の名著『「いき」の構造』に多くを負うもので、九鬼が提唱した「いき」の三要素――媚態(異性との安定した関係にこだわらない放浪の精神)、意気地(武士道に通じる江戸っ子の誇りと心意気)、諦め(運命を受け入れること)を、そのまま現代社会への劇薬に近い処方箋として再評価的にぶつけてみる試みと言える。
 ただし、このような思考実験が先鋭化するにつれ、石井の映画はキャラクターに盛る「意味」の重量が極端に増していった。それはラディカルな衝迫力ともなるが、同時にメッセージが限定的なものになり、映画表現の硬直を招きかねない。つまり人物全体、引いては映画全体が「観念」のかたまりになってしまう。とりわけキーワードの一点凝縮に向かう「意味」や「観念」の志向は、「言葉」への純粋な信頼に裏打ちされているわけで、実はそれが石井裕也の武器でもあり、最も危ういところである――というのが筆者の判断だった。

ところが『夜空』の「言葉」は、決して「意味」とイコールではない。知性以上に感情の発露として、もっと揺らぎの幅を持たせてある。先に「意味ありげだが、実はまったく取りとめのない言葉」と記したように、慎二や美香の「言葉」は、意味と非意味(「無意味」ではない)のせめぎ合いが自意識のもとで錯綜する個的な混沌として差し出される。石井自身は慎二の速射砲を「意味の剥落した言葉」と説明しているが、それは石井に芽生えた「言葉」への微かな懐疑であると共に、明らかにひとつの成熟を示すものだろう。「言葉」=「意味」の直線性では捉え切れないほど、世界はどこまでも不鮮明である、ということ。しかし「言葉」=「意味」からはみ出す有機的な膨らみの中にこそ、まだ我々が認知に至っていない可能性、「希望」の隙間も生まれるのではないか。こうして現実の曖昧さを積極的に許容するようになった石井の世界把握は、美香のモノローグ/ナレーションとして最果タヒの詩を引用する際、「言葉」そのものより、それを発信する「主体」の気持ち、肉体と肉声を重視する処理の仕方ともつながっている。

石井裕也の刷新として現われた「揺らぎの幅」は、おそらく『夜空』という映画の魅力の核心ではないか。「意味」と「非意味」のせめぎ合いとは、言い換えるなら「観念」と「現実」のせめぎ合い、でもある。その資質として時に生硬さにも傾きがちな石井裕也の「観念」が、「現実」の多元的な流動性によって揉まれていく様が、『夜空』では極めてスリリングに記録されているのだ。
 生硬さ、という評言に付け加えるなら、慎二と美香、いや、『夜空』に登場する人物たちの言葉(台詞)は、いわゆる「リアル」な日常会話の次元にはない。どこか格言めいた強いフレーズが組み込まれた、非常に構築性の高いものだ。例えば、ある日の建設現場で、岩下がコンビニ店員のおネエちゃんに惚れちゃったことを聞いた慎二は、こうアンドレスに話しかける。「コンビニは便利だなあ。煙草も酒も24時間買えるだろ。恋も売ってるんだって」。さりげない呟きだが、やたらゴツゴツした感触だ。「意味」や「観念」の成分が高い「言葉」を、「現実」の生々しい場に晒すと、どこか奇妙な印象が小さく結晶していく。観る者によっては、気恥ずかしさスレスレの感覚にタッチする時もあるのではないか。
しかしこれが渋谷や新宿の雑踏――つまり街の中を慎二と美香が共に歩くパートになると、過去に他の映画で味わったことのない「高次のリアリティ」が出現する。ここが筆者の強く惹かれる点だが、それはいったい何か。つまりはドキュメンタルなロケーション撮影の中に、かっちり構築された「言葉」がある。流動的な都市の風景と、演出された人間模様に微妙なギャップが生じる。「現実」と「言葉」あるいは「観念」の間に、レトリックとして言うと数センチの乖離があるのだ。これは自分が街を歩いている時の感覚に近い。様々な人々が行き交う「現実」の舗道を歩きながら、頭の中では「観念」が蠢き違う動きをしているような――。

こういった「現実」の場に投げ出され、個々の中で内的に浮遊する「言葉」や「観念」の在り様を、もっと端的に示しているのが野嵜好美扮するストリート・シンガーソングライターの歌だろう。劇中、渋谷の歩道橋や新宿の路上に計四回現われて『Tokyo Sky』というオリジナル楽曲(石井裕也の作詞による)をエレキギターで弾き語りする。その中でサビとしてリフレインされる「がんばれ」という歌詞は、石井が『川の底からこんにちは』から継続的に(つまりは意識的に)使用しているフレーズだ。今回は「がんばれ」というエールの言葉が、街の中に乱反射するような形でポンと投げ掛けられる。最初はまったく遠巻きに、彼女の存在にすらピンと来ていない慎二だが、ある時、美香に会うために走り出した彼にとって『Tokyo Sky』の「がんばれ」が急にリアリティを帯びて立ち上がってくる。「いま、俺に言っている」と思う。真摯な「言葉」も、ほとんどは雑踏の中でかき消されるけど、ピタッと周波数が合った者には人生を変える重要なきっかけとしてキャッチされる。ここには「現実」の多元性や流動性を踏まえつつ、石井裕也の「言葉」に対する懐疑と期待の両方が表れている、と考えていいだろう。

 こうして「揺らぎの幅」を獲得した「言葉」の在り方には、やはり左半分が闇の画面、あのワンカットの凄みが対置できるはずだ。つまり「言葉」での思考に余白ができたぶん、石井裕也は「画」で思考することを『夜空』で覚えたのではないか。実写から連鎖して広がっていくアニメーションなど、ざらざらとスケッチブックに絵を描くような感覚だし、これまで映像的には淡白だった石井裕也にしては、スプリットスクリーンなど「画」の試みが多い。とりわけ慎二がアパートの部屋で煙草をふかして、その火が夜の街の灯りになっていく――あの流れは無上に美しい。

「言葉」に対する懐疑と期待の両義性。その「揺らぎの幅」から芽生えた「画」への志向。あるいは「言葉」の直線的な重圧を柔らかに緩和する、「画」の曲線的なイマジネーション。おそらくこういった土台の上に『夜空』という劇は明晰に設計されている。
 特に「言葉」=「台詞」に関しては、先の両義性を包括する形でかっちり構築している印象だ。この澱みない作劇だと、現場でのフリーな即興性なノイズになるだろう。実際に一発勝負が多かったという荒っぽいゲリラ撮影と、繊細にコントロールされた台詞や芝居の組み合わせは「街頭演劇」のようだとも思う。

その「街頭演劇」性が最初に、そして最高に際立つのが、宮下公園のシーンだ。
夜、渋谷駅から近い宮下公園。自転車を停め、階段を上がってきて座りながら美香。
「でもさ、なんでこんなに何回も会うんだろうね? 東京には一千万人も人がいるのに――どうでもいい奇跡だね」
ぶっきらぼうにそう呟く。いま、ふたりがいる階段は前方に舗道が広がり、都市の明るい夜が手前まで伸びているが、階段の内側は両側の塀で灯りが遮られ、光のトーンがだいぶ落ちている。明度の低い、少しだけ都市の雑踏から隔絶されたような場所だ。確かに、ふたりきりで言葉を交わすのにはちょうどいい舞台かもしれない。
宮下公園は、2017年3月27日から再開発の工事に三井不動産が着手した。2020年予定の東京オリンピックに向けて、大きな民間施設――ホテルやカフェ、ランニングステーションなどを整備するらしい。東京の風景はどんどん変わっていく。「どうでもいい奇跡」は、もう取り戻せない奇跡に変わるかもしれない。人生のすべては一回性だ。我々は、本質的にかけがえのない一瞬ばかりを生きている。
そんな中で、誰かと出会う。
我々は一生のうち、ただすれ違う他者の数は一千万人では済まないかもしれない。知り合う人も、無数と言っていい多さだ。しかしその中で、自分の人生に何らかの変容をもたらす相手との接触に限り、初めて「出会い」と呼ぶのだろう。
その「出会い」を、あえて政治的なタームで言い換えるなら「連帯」ということかもしれない。「いま、ここ」で、ちっぽけな自分たちがささやかに生き抜いていくための。

我々は「ここではないどこか」には行けない。しかし自分にとっての「いま、ここ」を、選択肢の中から模索することはできる。
美香は田舎から東京に出てきた。具体的な場所は明示されない、言わば典型的なイメージとしての田舎が故郷だ。母親(市川実日子)はすでに亡くなっており、死因は自殺かもしれない。実家には優しいけど頼りない無職の父親と(このお父さんが『剥き出しにっぽん』から何度も反復されている、良くも悪くも父性を十全に機能させていない父親像……実に「石井裕也キャラクター」的だ)、どこでもそれなりに生きていけそうな恋愛好きで現代っ子の生意気な妹がいる。おそらく美香は、田舎の窒息しそうな環境から逃げるように上京した。だけど東京も基本は同じ。前の恋人(三浦貴大)は一般的な同質性を求める相手だった。しかしそんな中、慎二に出会った。美香はようやく、彼女にとっての「いま、ここ」にたどり着いた、のかもしれないのだ。

 筆者は『夜空』という映画を観て、これまで一度も触れたことのないユニークな肌触りを感じるのと同時に、作品の佇まいからはいくつかの映画(群)を連想する。ひとつは作品組成の独創において、「現実」と「観念」の熾烈な格闘において、松竹~創造社時代の大島渚作品。『新宿泥棒日記』(1969年)などは、映画による「街頭演劇」としてもわかりやすい先例だろう。
もちろん石井裕也自身の過去作もたくさん頭をよぎる。初期衝動の瑞々しいタッチが戻っている一方、彼のフィルモグラフィーの諸要素が総合的に散らばって出ている印象もある。特に近いのは初期の怪作――2006年に撮られた長編第二作の『反逆次郎の恋』だ。非モテ童貞と、気の荒いヤンキー女のボーイ・ミーツ・ガール。「なんか空を見てると、原爆が落ちてくる気がします」という世界への不安。「イヤな予感」に支配され、次第に妄想的な重みが増していく。非常にラフでネガティヴな内容だが、これを『夜空』の原型だと位置づけると、同様の強迫観念をポジティヴに超克しようとするところに、現在の石井裕也の成熟を明確に見て取ることは可能だろう。
そして、いちばん引き合いに出したいのは黒澤明の『素晴らしき日曜日』だ。昭和22年(1947年)、敗戦間もない東京で、手持ち金わずか35円の恋人たち(沼崎勲と中北千枝子)が歩き回るデートの日曜日。街には大きな貧富の格差があふれ、焼け跡には戦災孤児の姿も。ゴージャスな映画作りで知られる巨匠が、スタイルも簡素に抑え、最も時代の「貧しさ」に向き合った珠玉の小品だ。昼間、ダフ屋に安い席のチケットを買い占められ、「未完成交響楽」のオーケストラ演奏を聴き損ねた彼らは、夜の日比谷野外音楽堂に忍び込み、ふたりきりでコンサートの真似事をする。この、まさに「街頭演劇」的な美しさは、『夜空』の宮下公園と響き合っているように思えた。

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大傑作『ビジランテ』のプレスシートに掲載されたレビューを一般公開いたします。

ビジランテ.jpg
※公式に許可を得て、マスコミ用資料に書いたレビューをここに転載させていただきます。『ビジランテ』絶賛公開中です!


■灼熱の「いま」に生きる三兄弟の物語――
入江悠の評価はこれで決定的なものになる
Text by 森直人(映画評論家)


ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のように、強圧的な父のもとで育った三兄弟の物語は、極めて原型的なものだ。シェイクスピアの『リア王』で父に対峙する三姉妹を、黒澤明の『乱』や、ヒップホップ系の音楽業界を舞台にした米ドラマ『Empire/エンパイア 成功の代償』は三人の息子に変換して描いた。こういった「三兄弟もの」は、『ゴッドファーザー』を例に出すまでもなく、ザラザラした現実を扱いながらも神話的な構造美を備えることになる。

入江悠が大傑作『ビジランテ』で行ったのも、同様のことだ。ベーシックな「三兄弟もの」の枠組みを採用しつつ、その中にひとつの地方都市が孕み持つ歪みや闇、変貌し続ける「いま」の現実の混沌を、灼熱の温度のまま出来得る限り詰め込もうとする試みである。

設定の根幹は明らかに『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにしている。好色な成り上がりの地主、父フョードルが神藤武雄(菅田俊)のモデルだろう。遺産相続の問題をめぐって一堂に会する三兄弟、直情的な放蕩息子の長男・一郎(大森南朋)、合理主義的な知性派の次男・二郎(鈴木浩介)、ピュアネスを失わない三男・三郎(桐谷健太)のキャラクターも、ある程度まではあの小説のイメージに沿っていると考えていいはずだ。

舞台となるのは埼玉県「渡市」との設定だが、ロケは入江悠の故郷である同県深谷市で行われている。同地は、無名の自主映画監督・入江悠の起死回生の一本となった(世間では「デビュー作」と思われていることも多い)『SR サイタマノラッパー』の「聖地」でもある。2008年に撮られた本作では、実家住まいのニートラッパーがやり過ごすぬるま湯の閉塞を映し出すことで、「郊外の青春像」の典型を図らずも切り取ってみせた。

しかし以降、日本社会の状況は急速に進み、入江悠はその変容に対して自覚的・批評的になる。『SR サイタマノラッパー2~女子ラッパー☆傷だらけのライム~』では疲弊した地方の環境にタッチし、まもなく3.11を経て、『SR サイタマノラッパー/ロードサイドの逃亡者』では裏社会に転落する青年の姿が描かれる。劇中には移民たちの姿も現れた。さらに劇団イキウメ(前川知大)の戯曲を原作としたディストピアSF映画『太陽』では、格差社会の寓意の中でスラム化した日本の風景を広げてみせた。

 こうして振り返ると、入江悠とは、ゼロ成長に突入した現代日本における、最も真摯なプロレタリア作家として歩みを重ねてきたことが判る。彼が常に目を向けてきたのは、ドストエフスキー風に言うと「虐げられた人びと」なのだ。

一方で『ビジランテ』の画期のひとつには、おそらく『太陽』の体験を踏み台に、「虐げる」側のシステムを入江悠が初めて丹念に描出した点が挙げられるだろう。アウトレットモール建設計画を強引に推し進める地方政治。夫を裏から操り、野心のためなら手段を選ばない二郎の妻・美希(篠田麻里子)は、シェイクスピアの『マクベス』におけるマクベス夫人を連想させもする。生き馬の目を抜く弱肉強食の自己責任社会では、良心のタガが外れると、誰もが狡猾に生き抜いていこうとする怪物になるのかもしれない。

本作が映し出す地方政治の構造は、言うまでもなくグローバリゼーションの縮図でもある。いまやひとつのコミュニティーは世界性の精巧なミニチュアであり、『ビジランテ』には国際的にも共通する「負の連鎖」が濃厚に渦巻いている。例えば自警団「けやき防犯会」に加わった若者の移民排斥に向ける暗い情熱などは、時代全体を覆う世界情勢そのものだ。入江悠はワーナー配給の『22年目の告白-私が殺人犯です-』にも同種の「負の連鎖」を組み込んでいる。あちらがメジャーヒット作らしい豪快なエンターテインメントだとしたら、ハードコアな作家性の結晶体である『ビジランテ』は、入江悠という映画監督の評価を決定的なものにするだろう。


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ゆるやかなバトンリレー

わたしは、幸福(フェリシテ).jpgカサイ・オールスターズ.jpg
早12月! M-1グランプリも観たし(良すぎて感動しました)、『HiGH & LOW』『探偵BAR』の3にもようやく追いつき(両方面白かった)、あとは『最後のジェダイ』、さらにウチの5歳児を連れて『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ』あたりをクリアすれば、ようやく無事正月を迎えられるといった感じですけども。

ちょろっと近況報告。
実は去る11月29日(水)、ウチの父親が亡くなりまして。1日(金)からヨメ&息子と和歌山まで法事に出向いてまいりました。
享年71歳。まだ若かったですね。二ヶ月前に会った時はまだ一見元気だったし、一週間前お見舞いに駆けつけた時、うわっ、この人もやっぱり死ぬんか、ってようやく僕も実感したくらいで。

彼、バブル時代からつい数年前までジャカルタにず~っと単身赴任していて、
仕事のほかは「ゴルフ、服、車」みたいな男だったんですけど、
やっぱり最後まで本人の持ち味が出るっていうんですかねえ、葬儀も必要以上に湿っぽくならない。愛され感もしっかり漂いつつ、やたらカジュアルに諸行無常の鐘が鳴っているようなノリでしたよ。
息子とか、親戚のお兄ちゃんに遊んでもらえるから大喜びで、普通に「小旅行」を満喫しまくってましたからね!

まあ普段、遠く離れて暮らしてるせいもあるんですが、晩年の父親が苛立ったり、恐怖や不安の色を顕わにする姿は結局一度も見なかったなあ。
あくまで飄々かつ淡々と、深刻な素振りを見せず、軽みを失わないまま人生を完了していったのは、我が父親ながらなかなか偉いやんかと思いました。
家族と想い出話していても、どうしても悲劇ではなく喜劇のトーンになるというね。

家族内評価は常に賛否両論の父親でしたが(笑)、僕にとっては抑圧的なところがまったくない、実にありがたい父親でした。
おかげで好きなことがやれて、いまの仕事ものびのびやれてますんでね。

てことで、ちゃらっと宣伝・告知などを。

まず12月15日(金)・17日(日)・19日(火)・20日(水)・夜9時から二時間の無料放送! 映画専門BS10 スターチャンネル新番組『映画をもっと』内のコーナー「GO!シアター オススメ編」にて『わたしは、幸福(フェリシテ)』を紹介します。
契約していなくても視聴できる素晴らしいプログラムです。詳細は以下を。
http://www.star-ch.jp/topics/?information_id=502

そして、いよいよ公開となりました傑作『ビジランテ』。トークショー「ヤングday」として12月16日(土)、テアトル新宿にて 3回目上映の後、出演若手俳優が本作に対する思いを語る!ということで、吉村界人さん×間宮夕貴さん×大津尋葵さん、入江悠監督が登壇予定。わたくしはMCを務めさせていただきます。
http://www.ttcg.jp/theatre_shinjuku/topics/detail/55790

あと「OTOTOY」で「MOOSIC LAB 2017 Official Soundtrack」配信記念座談会! 「Playback MOOSIC LAB 2012-2017」と題して、直井卓俊さん×岩切一空監督×首藤凜監督と一緒に喋らせていただきました。構成は阿部文香さんです。
https://ototoy.jp/feature/20171120002/1

それと「CINEMORE」に『パーティで女の子に話しかけるには』と、祝DVD発売記念で『20センチュリー・ウーマン』について書きました。
https://cinemore.jp/jp/erudition/148/article_149_p1.html

https://cinemore.jp/jp/erudition/156/article_157_p1.html

エディ&ザ・ホット・ロッズ.jpgレインコーツ.jpgトーキング・ヘッズ.jpg
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詣でる

近所の神社にて.JPG5歳児の753.JPG
一応の業務連絡。今月22日(水)~23日(木)の二日間は丸々休業&留守に致しますのでよろしくお願いします!

てことで去る11月17日(金)、七五三のお務めを果たしてまいりました。
今日の正装.jpgはらへった.JPG
最近、保育園に行く服も自分で選ぶ5歳児です。ここまで育つと、もうでかいし、うるさいし、生意気。歳月の流れを感じますわ~。

ちょろっと宣伝を。
dTVのサイトに橋口亮輔監督「恋人たち」について書きました。
https://pc.video.dmkt-sp.jp/ft/s0003301

「pen」にさすがソダーバーグ!の『ローガン・ラッキー』レビューを。
「映画秘宝」に必見の大熱作『ビジランテ』!にまつわる入江悠監督インタビューと、その補完的な作品評を。洋画最前線には『パーティで女の子に話しかけるには』を。
「キネマ旬報」には足立紳さんの小説第三弾、またしても名作!な『弱虫日記』の書評を。
そしてただいま公開中、デイヴ・エガーズもの『ザ・サークル』の劇場パンフレットに作品評を寄稿しております。
やっぱり面白いなあ.jpgザ・サークル(原作小説).jpgデビュー作ですね.jpg
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自分が『母をたずねて三千里』を観ていたのはちょうど5歳の頃だった

処女航海.jpg
また台風襲来ということで、今日(日曜)は近所のコンビニにしか外出しまへんでしたわ。でも結構ボ~ッとできる時間があって、元来ナマケモノの自分には良き休日でした。
息子(5歳4か月)は保育園・日曜特別行事でのハロウィンパレードをめっちゃ楽しみにしてたんですが(衣裳もばっちり揃えてました)、あえなく雨天中止。結局一日、珍しく内省的に(?)自宅でなんとなく遊んでました。

ちなみに彼、ライダー&戦隊の延長でアメコミ系にも興味が出てまして(いまはマーベルではなくDCですね)
保育園の通園前、しらすごはんとヨーグルトを食べながら『ダークナイト』とか早朝からよく鑑賞してます。最初に観たのは3歳の時なんですが、徐々にキャラばまりして、ヘビロテになってるのはここ最近。それでもハービー・デントが顔を焼かれてからしばらくのシーンは絶対目を背けてますけども。

温故知新に努める幼児なので、ティム・バートン版『バットマン』一作目も鑑賞済み。彼は「旧」という意味で「昭和のバットマン」と呼びます(実際は89年なので平成元年の作品)。『アメトーーク!』で覚えた「昭和ライダー」「平成ライダー」という言い方をそのまま独自に延長しております。

で、こないだ『ダークナイト ライジング』をようやく半分くらいまで鑑賞しまして(過去何度かトライするも、だいたい序盤で飽きてた)、ついに初めてキャットウーマンとご対面!
「えっ、バットマンの彼女!? おとうさん、バットマンの彼女出てきた!!」って騒いでました。平日の朝8時前に。
Catwoman.jpgキャットウーマン.jpg

とまあ結構長い時間、子供の相手をしている日々なわけですが・・・
東京国際映画祭も開催中の現在。そちらとは別に今月25日(水)の夜、『ポンチョに夜明けの風はらませて』(このタイトルを聞くと自動的に『母をたずねて三千里』の主題歌「草原のマルコ」が脳内に流れる世代でございます。「世界名作劇場」の第二作、初回放送は76年か)公開記念ということで、
廣原暁監督、太賀さん、さらに『南瓜とマヨネーズ』の公開を控える冨永昌敬監督によるトークイベントでMCを務めさせていただきました(@新宿武蔵野館)。
目覚ましいご活躍の太賀さんとは実は二回目で、以前『インヒアレント・ヴァイス』のトークイベントでご一緒していたのでした。お話も真摯かつ明晰で本当素晴らしい。
廣原監督とは初対面。廣原監督と冨永監督もこの日が初対面だったとのことで、貴重な現場になりました。
草原のマルコ.jpg

書き物のほうはといえば、
次の号が出ようかというタイミングで恐縮ですが、「pen」のSF大特集号で『エイリアン:コヴェナント』クロスレビューに参加しております。
また絶賛公開中の『バリー・シール/アメリカをはめた男』劇場パンフレットに作品評を寄稿。『リングサイド・ストーリー』のパンフにも寄稿。
pen SF号.jpgbarryseal.jpg

『バリー・シール』は「CINEMORE」にも書きました。
https://cinemore.jp/jp/erudition/119/article_120_p1.html

てことで、今年もあとほぼほぼ2か月。ようやく冬物いくつか、クリーニングに出してきました。

謹んで、合掌。不滅の男(たち)。
エンケン、伊藤耕、ファッツ・ドミノ.JPG
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秋か~、と思ってるとすぐ冬がやってくる

モッズコート.JPGつづれおり ライヴ・イン・ハイドパーク.jpg
早10月! 保育園の運動会もぶじ完了しまして、あとはハロウィンとクリスマスか……といったところですが、
ちょうど体調要注意の衣替えの時期なんだよな~。いろんな寒暖対応パターンを用意しておかないとすぐ風邪ひきますわ。
となると、さっさとクリーニングにも行かねば……(とメモすることで覚えておく)。

ちょろっと宣伝。
「テレビブロス」の『アウトレイジ 最終章』特集で、北野武監督、西田敏行さん、ピエール瀧さんにそれぞれインタビューさせていただきました。総括コラムも書いております。

そして、すんごいぶ厚い、立派な書物がどかんと届きまして。『吉本興業百五年史』(↓)。僭越ながら「松本人志映画はどう見られたか?」という文章を寄稿させていただきました。
吉本興業百五年史.JPG

「朝日新聞」の先週金曜(6日)夕刊には行定勲監督の『ナラタージュ』評を。デジタルでも読めます。
http://www.asahi.com/articles/DA3S13169444.html

「映画ナタリー」にはAmazonビデオミニシアター特集で、アン・リー監督の『ビリー・リンの永遠の一日』レビューを。
http://natalie.mu/eiga/pp/amazon-minitheather

映画うんちくサイト「CINEMORE」では現在4本寄稿しております。

https://cinemore.jp/jp/erudition/23/article_24_p1.html
『ハイドリヒを撃て!』について。
https://cinemore.jp/jp/erudition/23/article_24_p1.html

からの、『ワルキューレ』など。
https://cinemore.jp/jp/erudition/23/article_28_p1.html

『あの頃ペニー・レインと』について。
https://cinemore.jp/jp/erudition/75/article_76_p1.html

からの、なんと『ロッカーズ』。
https://cinemore.jp/jp/erudition/75/article_90_p1.html

とりあえず、こんなもんで。
先月の写真から、祖父(71歳)と孫(5歳)の図(↓)。
2017年9月その1.JPG2017年9月その2.JPG2017年9月その3.JPG
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レイトサマー、からすでにその後

ユリイカ大根仁特集.jpgウオモ.jpg
まずはちゃらっと書きもの告知。おそらく17年ぶりくらいかな? 新人時代以来超久々に、『ユリイカ』に書かせていただきました。約8800字の「大根仁論」です。ジャケ的にもかっこいい一冊ですね。是非!

『朝日新聞』に書いた『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』評はデジタルでも読めます。
http://www.asahi.com/articles/DA3S13135057.html

そして初登場『ウオモ』。ドキュメンタリー特集(P198~201)の中でコメントと、それにちなんだ三作品推薦。『アクト・オブ・キリング』『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』『あんにょん由美香』を挙げさせていただきました。

『映画秘宝』には洋画最前線に『女神の見えざる手』。あと『アウトレイジ』サーガについて短い原稿を。

『こども映画プラス』には『50年後のボクたちは』公開記念的に「こどものための映画的家出のすすめ」というテキストを。
http://www.kodomoeiga-plus.jp/article/521

てことで、遅い夏休み(小旅行)明けです。でもすでに通常運転に戻ってから一週間経ってるという。早いわ~。
Mistletoe×PLANETSのトークイベント「情報環境は映画/音楽の快楽をどう変えるのか」で気持ちよく喋らせていただいた夜、の早い翌朝(16日・土曜)からいそいそと出発!
その「いそいそ」が高ぶりすぎて、飛行機に乗る直前、なぜか羽田空港内で急に紙飛行機を折り始める息子(5歳3か月)。
空港で紙飛行機.JPG製造中.JPG

ただし天気予報は、もろ台風。
しかもちょうど猛威をふるってびゅんびゅん吹き荒れている方向に、わざわざ自分らから突っこんでいくような日本列島南下だったんですが(昨年もそうだった)
な~んと、その悪天候を絶妙にかいくぐって、実際に直撃されたのは2日めの夜のみ。やんわりとした感じで無事ひと通り楽しむことができました(昨年もそうだった)。温泉に入ってるときは雨降ってましたが、それもまた良し。

しかし旅行中は、おれ、やたら健康だったな~。
なぜか? と思ったら、要はいつもよりずっと「目を使ってない」んですね。
結局、普段の不健康の主な原因は、目を酷使している、そしてパソコンの前に長時間座っているからだという明快な答え。
なんとカラダに悪い職業か・・・。これからは「上手な休み方」を自分なりに開発していきたいと思いマス。とはいえこっからは年末に向けてどんどん加速する感じだよな~。
実はもうすぐ台風がくる.JPGキャッチ.JPG
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「9月の夏休み」の前に

ノー・スモーキング・オーケストラ!.jpg
今月16日(土)~20日(水)、むりやり遅い夏休みを取らせていただく!(仕事道具一式は自宅に置いていく!)ということで、
その前の怒涛の日々が続いております。怒涛すぎて丸一日、体調不良で寝込んでしまいましたが、また何とか復活して怒涛を再開しております。

まず先月、8月30日(水)。『ダンケルク』のT-SITE試写会で樋口泰人さんと喋らせていただきました。
この日、二度目の鑑賞に臨んで、また新たに刺激を受けてからのトーク。重要な話がたくさん出たんじゃないかと思います。
綺麗に要約していただいたレポートもありがとうございます!(↓)
http://top.tsite.jp/news/cinema/i/36700908/?sc_int=tcore_news_movie

9月に入って2日(土)は息子(5歳2か月)のスイミングスクール初日を軽く見届けてから、
『オン・ザ・ミルキー・ロード』日本公開記念、エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラの一夜限定LIVE(@Zepp Tokyo)へ。めっちゃ楽しかったです!!
ひと言でいうと「セクシー」ってやつですね。世界最強のハコバンみたいな、良い意味での水商売っぽさも満たんでした。

やはりいろんな方々が観に来ていたようで、上演後はモルモット吉田さんなど知った顔数名と遭遇。

それを受け、4日(月)の夜は、『オン・ザ・ミルキー・ロード』試写会トーク(@ユーロライブ)MCとして黒猫チェルシーの渡辺大知さんのお相手役を。
大知さんとは『モーターズ』のトークに呼んでいただいて以来、約2年ぶりの対面となりました。

さらに8日(金)夜(というか深夜突入前)、新宿ピカデリー・スクリーン6の「爆音前夜祭」ノーランナイト。『ダンケルク』『インターステラー』『インセプション』という超ディープなメニューながら、なんと「2分で完売」!というこの席の上映前に、
再び樋口泰人さん、そしてダイノジの大谷ノブ彦さんと、奥浜レイラさんのMCで喋らせていただきました。
やはり『ダンケルク』についてならいくらでも話せる、どんどん話が長くなる、ということを実感。つまり作品として表現レベルの「謎」が多い、すなわち批評の出番がある、ってことなんですよねー。

この怒涛の流れに合わせ、書きものもいろいろ出てます。
まず『ダンケルク』劇場パンフレットに「ノーラン映画の構造」と題した監督論を。
同日公開となりました『三度目の殺人』劇場パンフレットには作品評を。
これまた同日公開、『ナインイレヴン 運命を分けた日』の劇場パンフレットにも作品評を。
『ナインイレヴン』に関しては、明日の11日(月)、18:30の回上映前になんと猪瀬直樹さんのトークの聞き手を務めさせていただきます!(新宿武蔵野館にて)。

今月15日にいよいよ公開となります『オン・ザ・ミルキー・ロード』の劇場パンフレットにも作品評を寄稿しております。

いま発売中の「キネマ旬報」には『三度目の殺人』の監督&俳優論的なアプローチの作品評を。
そして『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』の作品評も書いております。

「MOOSIC LAB 2017」も非常に充実してました。楽しかったです!

あと9月15日(金)19:30より、Mistletoe×PLANETS特別企画「情報環境は映画/音楽の快楽をどう変えるのか」にて、『ラ・ラ・ランド』をめぐって音楽ジャーナリストの柴那典さんと対談します(司会:宇野常寛さん)@会場:STRATUS TOKYO(外苑前)。※LIVE中継あり。詳細は以下にて!
http://peatix.com/event/296910/view

黒猫チェルシーの「ライフ・イズ・ミラクル」.jpgハンス・ジマーすげえ.jpgらららんど.jpg


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